あまりにも世間知らずな「日本CTO協会」の「デジタル庁の創設に向けた提言」

「日本CTO協会」という団体がデジタル庁の創設に向けた提言と題した文章を公開しているのだが、これがあまりにもひどい。

第一の提言である「ソフトウェアコントローラビリティの獲得」の主眼は「私たちは、デジタル庁の長官として、デジタル企業の経営と技術の観点を兼ね備えたCTO人材を民間から招聘するべきだと考えます」にあるのだろう。つまり、「日本CTO協会」の会員にポストを割り当てろという要求にほかならない。

第二の提言「ソフトウェアファーストな法整備」は「現行の法令ファーストではなく、ソフトウェアファーストに思考し」とうたうが、あまりにも幼稚である。法の原則よりソフトウェアの都合を優先しろという主張は夜郎自大というほかない。

第三の提言「Nation as a Service(サービスとしての国家)」にセキュリティやプライバシーへの配慮がまったくないことにも驚かされる。「引っ越しの際に行政の提供するITサービスで住所を変更したら、利用しているさまざまな民間のサービスの住所変更も自動的に行われるとしたら、とても便利でしょう」と言うが、DV被害者など新しい住所を極力知られたくない人にとっては良い迷惑である。

第四の提言「データ駆動とKPI」は「明確な数値目標を持って改善を進めていく必要」を訴えるのだが、この「数値目標」というのが何なのか曖昧としていて意味不明である。ここで思い出されるのは、国立大学が独立法人化され数値目標を追わされた結果、日本の研究力が激しく低下した一連の流れである。とても不穏な提言だと言わざるを得ない。

第五の提言「失敗を許容する文化と透明性」もあまりに世間が見えていない。岡崎市立中央図書館事件、coinhive事件、無限アラート事件など、行政の技術に対する無理解で生じた冤罪は多数あるが、これも単なる「失敗」として許容しなければならないのだろうか?これは民間の例だが、ドコモ口座を通じて30万円の現金を引き出されたとしてもやはりこれを許容しなければならないのだろうか?
「ベータ版というしくみを導入するべき」「最初からユニバーサルサービスを目指してしまうと、本当に改善すべき課題を早めに見つけることができません」と訴えるが、経済的困窮者、視覚障碍者、高齢者などの情報弱者への配慮が一言もないことの異常さを自覚しているのだろうか?
意思決定過程の公開、積極的な情報公開、プライバシー・セキュリティへの配慮といった、失敗が許容されるために最低限必要な素地を整えることが優先されるべきではないだろうか?

このようにして見ると、数値目標の絶対視、弱者への無関心、国民の権利保護への無関心など、全体に経済産業省的、新自由主義的な色合いが強い提言となっていることがわかる。このまま「デジタル庁」が設立されるのだとして、この提言に従い、プライバシーやセキュリティや情報弱者への配慮を軽視した形で進むのであれば、それは国民にとって必ずしも有益な機関にはならないのではないかと思う。